学問のすすめ

 福沢諭吉の「学問のすすめ」と日本の発展
 
ここでは、私たちはなぜ学問に取り組むことが大事なのかについて考えてみましょう。皆さんは福沢諭吉という人を知っていますね。有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」という文言を残した人です。この一文は彼が明治4年(1872年)に書いた「学問のすゝめ 初編」の冒頭にあります。今から140年も前に、本来平等である人々にいろいろな差異や差別をもたらすことの大きな理由の一つが学問を身につけているかどうか、にあると喝破した福沢諭吉はまさに的確な洞察力の持ち主であったと、いまさらのように感服します。

 なぜ学問が人々に差異や差別をもたらすのでしょうか。諭吉は続けて「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人となりとあり。...人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」と述べています。つまり、学問を身につけた者は、そうでない者に比べて、貴ばれ豊かになるというわけです。ここで諭吉のいう学問とは「和歌や詩など実なき学問は先のこととし、まずは日用に近い実学で、いろは47文字、手紙の文言、帳合の仕方、天秤の取扱い等、..地理学..究理学..経済学..修身学..」である。

 学問を実学か否かに分けることが妥当かどうかは別にしても、学問とは「筋道だった知識や情報の体系」で、人文科学、社会科学、自然科学など広範な分野にわたります。それらは人類、社会がその発祥以来、数千年にわたって築き上げてきたものです。人間が人間たる所以は、知識や情報に基づいて判断し、行動し、生活することですから、的確な知識や情報を身につけていなければ、人間として正しい判断や行動に支障が出ることは当然のことでしょう。学問は知識や情報の体系として、日々の私たちの判断、行動、生活のための知識や情報の基盤になるものです。だから、諭吉は学問を学ばざれば、人として差異を受けることになる、として学問のすすめを唱えたのです。

 諭吉が生きた時代は江戸時代から明治維新へと大きく日本が変革を遂げました。それまで貴族や武士などの一部の特権的な階層の人々が学問を独占し、庶民は「由らしむべし知らしむべからず」と扱われてきたのです。しかし、当時の西欧列強の発展の根本に民の学問への理解の程度、すなわち教育のレベルを見たのが諭吉など当時の啓蒙家といわれる知識人だったわけです。そして、明治政府もそのことを良く理解し、まずは全ての国民が「読み書き算盤」ができるようにと、小学校を全国津々浦々に設置しました。このことが、どれほど国として大きな意義をもったかは、開発途上国といわれる国々で、未だ満足に教育を受けられない子供たちが多く、飢餓、貧困、病気、戦争にあえぐ国民が多い有様を考えれば理解できるでしょう。

 この小学校教育を基礎として、中学校、高等学校、大学といったより高度の教育を行う機関が短期間のうちに設けられ、日本は知識レベルの高い国民の育成に成功したのです。この上に、明治以来の西欧列強に追いつき追い越せの富国強兵政策が遂行され、ついには無謀ともいえる太平洋戦争に突入してしまいました。もちろん、このことは決して肯定されることではありませんが、良い意味でも悪い意味でも、日本が学問のすすめの精神のもと、国民への教育を近代化の最重要施策として実施し、大きな結果を得たことは間違いないでしょう。第二次世界大戦で日本は、明治以来の富国強兵政策で得た「果実」を全て失いましたが、今度は平和国家として科学技術立国を標榜して廃墟から立ち上がり、わずか40年にして世界第二位の経済大国になったのです。「科学技術立国」にも学問のすすめの精神が息づいているといえるでしょう。

 再び「学問のすすめ」
 
さて私がここで改めて、「学問のすすめ」を説こうとするのは、日本は第三の困難な時期にあると思うからです。明治維新、第二次大戦後、そしてバブル崩壊後の20年近く経った現在です。我が国のGDP(Gross Domestic Product)は、1990年と2009年とではわずか数%しか伸長していません。このような国は世界広しといえども、わが日本を含めて数少ないのです。この困難は、戦後、米国の豊かな物質文明を目の当たりにした、我が国の人々が米国に追いつき追い越せの精神で、ひたすら頑張ってきた我が国のあり方がもはや行き詰ってしまったからだといえるでしょう。

 人、物、金、情報が国境を越えてグローバルに行きかう今日、我が国のみが高い技術力で繁栄を謳歌することはもはや困難でしょう。韓国、台湾、中国、ロシア、インド等の後発国がどんどん追いつき、我が国が得意としてきた製造分野を侵食してきたのが今日の状況です。これは、40年以上前、我が国が米国をキャッチアップし、多くの既成分野から米国企業が撤退を余儀なくされた状況と類似しています。その結果1980年代後半、米国は大きな危機に見舞われましたが、パソコンやインターネットなどIT革命や生命科学技術を先導することによって、世界のトップランナーとしての位置を確保し続けています。米国がこのように世界のトップランナーに地位を保持し続けることができる最大の理由は、米国が世界中の夢と希望を抱く優秀な人材を集め、彼らが懸命に働くことによって、先端分野を切り拓いているからでしょう。

 日本が世界第二の経済大国となったからには、セカンドランナーから世界のトップランナーとしての役割が期待されたのです。日本の多くのリーダーも、私のような技術者も、そのような日本の役割を思い描いたのでした。しかし米国のように世界中から人材を集めることができない以上、米国に太刀打ちできないという現実がバブル崩壊以降の日本でした。それならば、先行する米国、肩を並べようとしているかっての発展途上国の狭間にあって、我が国の世界における立ち位置はどうあったら良いのでしょうか。

 我が国が目指す国は、国民の平均的な生産能力が世界トップということではないでしょうか。平均的な生産能力とは何かといえば、一人当たりのGDPといっても良いかも知れません。我が国は構成人種が非常に限定され、世界でも稀な国です。これはアジア大陸の東側に位置する島国という地理的環境と我が国の外国人入国政策によるもので、人種の坩堝である米国との大きな違いです。良否は別として、これが現実である以上、このことに立脚した方向を考えねばなりません。

 国民の平均的な生産能力を高めるためには、国民の教育のレベルを維持向上させていく以外にありません。知力こそ、有限の物質的な資源にも増して、産業を振興する基礎であることは、20世紀後半の産業発展の歴史から一目瞭然です。しかし、今日の日本において教育レベルの維持向上は容易なことではありません。なぜなら、我が国の経済発展の結果、国民特に子供の向上意欲、勤勉意欲、ハングリー精神といった基礎的上昇志向が相対的に衰退しているからです。

 良否は別にしても、戦後全てを失った我が国が再起するために、人々が貧困から抜け出すために、まずは学ぶことだという多くの国民の共通認識が、我が国を高度成長に導き、一人一人に豊かな生活をもたらす基礎だったといえるでしょう。つまりは、学ぶこと、教育を受けることが、豊かな生活への第一歩だったというわけです。その結果、我が国は、ほとんどの子供が高等学校教育を受け、さらに大学進学率40%を超えるまでになりました。

 しかし、上昇志向が衰退した子供にとって、高等教育が真の意味で「学問のすすめ」になっているか、疑問なしとしません。高等学校にあっては、「不登校」「荒れた高校」「退学」などなど、大学にあっては「挨拶のできない大学生」、「勉強をしない大学生」、「分数の分らない大学生」など、高度の教育システムを実現した国とは思えない、多くの深刻な問題が噴出しています。我が国の子供のこのような姿は、貧しさからの脱出と豊かな生活を夢見て、目をきらきらさせて懸命に学んでいる開発途上国の子供に比べると、大きな危機を感じさせます。このままでは、我が国が現状の国際的産業競争力さえ維持することは困難です。そのことは、多くの国際比較の指標に表れています。

 だから私は、再び「学問のすすめ」が大事だと思うのです。このページを読んだ若い読者の皆さんには、ぜひとも私の意のあるところを理解され、勉学にひたむきに取り組むことを希望します。(平成22年10月1日記)

「高い志をもって学ぼう」
 
さて、ここで一人ひとりにとって、学ぶことの意義を考えてみる必要があるでしょう。そして学ぶことによって、何をすべきかを考えてみましょう。私たちがおかれている今日の社会には二つの大きな特徴があると考えます。第一は複雑化ということです。我が国はおよそ2000年の歴史を経て、民主主義社会を標榜するに至りました。そこでは、すべての国民に基本的人権と平等とが保証され、主権は国民にあります。
 
 民主主義の実現には、社会のなにごともルール(多くの場合は法律)にのっとった運営が必要です。ルールによらない、たとえば特定の人々の恣意による社会運営は民主主義と相いれないからです。全ての人々に行き届く配慮をした上で、整合性のある社会を実現するためには、精緻な法律があらゆる場面で必要になってきます。社会は複雑にならざるを得ません。加えて私たちの豊かな生活は高度に発達した科学技術によって支えられています。結果として身の回りにある多くの物が非常に複雑な構造や構成をとっています。また多くの要素や部材を有機的に結合した製品やシステムが社会の至るところで機能しています。

 第二はグローバル化ということです。人、物、金、情報が国境を越えて行き交い、諸国間の相互依存が急速に進んでいます。私たちの身の回りには外国の人々、製品、情報が溢れています。逆に、私たちも外国へ出かけ、交流し、働き、製品を輸出するなどの行動を日常茶飯に行うことになります。日本から海外へ、海外から日本へ、お金も出入りしています。したがって私たちは外国に関わる様々な対応を日常的にしなければなりません。当然、地球上の多くの国々に関する知識や情報とそれらに基づくコミュニケーションが必要になってきます。

 このように現在の社会は高度に複雑化、グローバル化が進み、とどまることがありません。私たちがこのような社会で生き、働いていくためには、複雑化グローバル化する社会を理解し、評価し、制御し、活用する力を身につけて行く必要があります。このことは子供たちがより一層学力を身に着けることが必要なことを意味しています。教育によって、より高い学力を身に着けた子供たちは、社会でより良く働くことができ、より大きな貢献ができ、結果としてより多くの見返り(多くの場合、金銭的報酬)を得る可能性があるでしょう。熾烈な受験勉強との関係で学歴社会の功罪が議論されますが、報酬に結びつくのは学歴ではなく、より大きな社会的貢献を可能とする学力であることは論をまちません。

 ここで気をつけなければならないのは、より大きな貢献をすることが、結果としてより大きな報酬に結びつくことです。より大きな報酬を得るために学力を身に着けることではないことを知ってほしいと思います。なぜなら、努力して学力を身に着けようとしている者に対して、社会が大きな支援をしているからです。 中学校までは義務教育として、教育にかかる費用は税金によって賄われています。高校以上の教育は自発的なものですが、国公立であれば、大部分は税金によって賄われています。一方、私立では、自費(親が負担するのが一般的です)の割合が高いとはいえ、半分近くが税金で賄われているのです。

 社会は成長した子供たちが社会に貢献することを期待して、多くの税金を教育に投入しているのです。成長した皆さんは、主として仕事を通じて社会に貢献し、報酬を受け取ります。報酬は貢献に見合うべきものですが、このように社会からの支援が皆さんの報酬に効果を上げるということを忘れてはなりません。
 とするならば、多くの報酬を受けた人は、その報酬をいかように使おうとも自由ではあるけれど、それが社会的な恩恵を受けたものであるとの自覚をもって受け止める必要があるでしょう。多くの報酬のいくばくかは私的な目的ではなく、たとえば、次代の子供たちの育成、恵まれない人たちのための支援、社会一般の公共や福祉などの「高い志」に捧げられるべきでしょう。そうすれば、結果として日本の社会はますます豊かになり、世代を継いでより良い社会の形成につながってゆくのではないでしょうか。

  時まさに東日本大震災からの復旧復興が緊急課題になっています。若い皆さんにも多くの影響が否応なく押し寄せていることでしょう。どうか、教育が皆さん一人一人に寄せている期待を考えて、高い志をもって勉学に励んで下さい。そうすれば、きっと皆さんにより良い果実をもたらしてくれるでしょう。(平成23年8月1日記)

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