理系のすすめ
はじめに
私たちは、人を理系,文系と分けたがる傾向があります。人がもっている多様な側面を無視して,単純に区分してしまうので,あまり良いこととは思えません。しかし,学問分野や仕事領域を大別して理系,文系と分けて考えることには意味があるでしょう。知識や情報、それらを利用する方法や思考方法などが、理系と文系では大きく異なるからです。ここでは,理系的な仕事の意義と,そのために理系の勉強をすることの重要さを考えてみます。そのことが、理系の学問をめざす皆さんの励ましになれば幸いです。
理系の仕事
理系の仕事とは、一口でいうならば、事物に働きかけて、新たな価値を生み出すことといえるでしょう。江戸時代に、人々の身分を士農工商と表現しました。民主主義からは遠い身分制の象徴的な言葉ですが、歴史的にみれば、大雑把に農工が理系の仕事として存在していたというわけです。農は大地から米や野菜などを作り出す仕事です。工は自然物から有用な人工物を作り出す仕事です。いずれも、自然のままでは存在しえない事物を人々に提供するものです。あたりまえのことですが、このような仕事がなければ、人々は自然が提供してくれる、あるがままのものしか利用できないから、豊かな生活を送ることなど全く叶わないのです。経済の成長は、このような仕事によって新たな価値を提供し続けることによって、可能になるのです。
もうすこし具体的に理系の仕事をみてみましょう。第一次産業は直接自然界に働きかけて、事物を取得して価値を提供します。農業、林業、漁業、鉱業(採石業、砂利採取業等を含む)が該当します。これらの産業の中心的な仕事はすべて技術的なものといってよいでしょう。前三者は大学では概ね農学部で扱われ、基盤となる学問は生物学です。最後者は工学部で扱われ、基盤となる学問は地質学や化学です。
第二次産業は建設業、製造業、電気・ガス業などです。建設業は小は住宅から大は大規模な建造物の建設に関わるものですが、自然環境を改造する土木業なども含まれます。建設業は製造業と区別される場合が多いのですが、住宅から大規模なビルまで、橋、道路、ダムなどの社会基盤の建設まで、モノを造るという点では製造業と同じような性格をもっています。大きな違いは全く同じものを作ることはほとんどない、ということでしょう。
製造業は文字通りモノを造る仕事で,私たちの生活に有用なモノを造ります。身の回りには無数のモノがあって、私たちの豊かな生活を実現しています。モノ作りは原材料を加工して、さまざまな部品を作り、これらを組み合わせて有用なモノを作ります。製造業ではまさに技術的な仕事が中核となっています。身の回りで最も多い材料の一つが鉄でしょう。かって、鉄は国家なりと言われた時代がありました。鉄は建物、橋、船、鉄道、車など社会基盤に欠かせない材料だからでした。この鉄を作る製鉄業は、鉱山で採掘した鉄鉱石を高温で溶融して純粋な鉄のみを作りだすのです。鉄を取り出す方法、加熱の技術、溶融の技術、冷却の技術、工程を管理する技術などなど、製鉄でも多くの技術が必要です。
我が国が生産する世界的に優れたモノの中には、車、船舶、家電製品、カメラなどがあります。車は数万の部品から成り立っています。それぞれの部品が原材料を元に、所定の機能を実現するように作られるのです。その過程には、材料の調達、材料の加工と検査、部品の組み立てと検査などの工場での生産の過程に加え、その前段として、部品の機能実現のための研究開発と設計という技術開発過程が欠かせません。こうして作られた数万点の部品がいろいろに組み合わされて、車組立工場に集められます。車の製造ラインでは、部品がはめ込み、ネジ締め、溶接などにより組み込まれ、ボディに塗装などが施され、完成します。入念な機能性能検査が行われ、合格したも車が出荷されます。こうした車の生産もまた多くの技術の上に成り立っていて、当然ながらこうした技術の開発は理系の仕事です。
電気・ガス業は私たちの生活の基盤となるエネルギーを作り出し供給する仕事です。電気を作り供給するためには発電施設と送電施設が必要です。ガスを作り供給するにはガス源と供給施設が必要です。発電機は磁場中をコイルが回ることによって、電磁誘導の法則によって、電気が発生する装置です。この発電機を回して電気を得る実用的な方法には火力、水力、原子力によるものがあるのですが、いずれも多くの技術が利用されています。
第三次産業はサービス業といわれることも多いのですが、情報通信業、運輸業、郵便業、販売業、金融業、保険業、不動産業、飲食業、宿泊業、娯楽業、教育業、医療業、福祉業などが含まれます。このように上げてみると、モノの生産には直接関わらない、多様な産業が含まれています。共通するのは、人々の生活や仕事のさまざまな場面で発生する欲求に応える産業だということです。情報通信業は情報を得たい、コミュニケーションしたいという欲求を満たすために、情報を提供したり、情報通信サービスを提供したりします。販売業には卸や小売が含まれますが、人々が求めるモノを取りそろえ、必要なときにはすぐにでも提供できるようにします。保険業には生命保険や損害保険がありますが、万一の身体や財産の事故の際の損害を補償するサービスを提供するものです。
こうした産業は一見理系や技術とは無縁に思われます。人々がこうしたサービスを受ける場合は、人を介してです。そのような人は営業職であり、もっぱらサービスの説明と販売を行います。しかし、情報通信業では情報通信技術とそれに基づく施設、設備、機器が欠かせません。非常に多くの技術者がそのために働いています。運輸業では、車、電車、船舶、飛行機等々の輸送手段、荷物の積み下ろしのための様々な機器、これらを運転制御するための技術などの技術、設備、機器が産業の基盤です。それらの運用、整備、改良、保全のために多くの技術者が働いています。
販売業では、良い製品を提供するには、お客さんからの情報が最も重要です。製品を使用するお客さんがもっているニーズ(必要性)に応える製品が売れるからです。そのようなニーズを具現化するためにはさまざまな技術が必要であり、営業職の重要な仕事の一つがお客さんのニーズを理解し、それらを具現化するために関係の技術者と連携して研究開発をすることです。最近では小売業でも競争優位な製品を供給するために、自社で製品を開発、生産する企業が少なくありません。人々に楽しみや喜びを提供する娯楽業は、近年は特に、先端的な技術に依存しています。アニメの製作にはコンピュータソフトが欠かせません。ゲームソフトも同様で、高速のコンピュータやCG(Computer Graphics)、そしてソフト作成という技術過程などが欠かせません。当然ゲーム機器は特別のコンピュータといってよいほど、高速の信号処理をする機器です。
そして、サービス業の基盤として情報通信技術が不可欠になっています。サービスの合理的な提供のためには情報通信技術が大活躍するのです。宅急便がこれほどまでに活用されるようになったのは、一品一品がコンピュータによって管理され、今どこにあって、いつお客さんに届くかが瞬時にしてわかるからです。お客様の大事な荷物が行方不明になるなどということはありません。ネット販売が急速に普及しました。インターネットのショッピングモールから、お客さんは好きな物をいつでも注文できます。お店へ行く必要はないので、時間の節約になるし、お店にない物、遠隔地の名産名物を簡単に購入できます。
医療業の重要さはいうまでもないでしょう。医師、看護師、各種の検査技師などの仕事はまさに理系の仕事です。人々の病気を直し、健康の回復維持に貢献する医療業に従事する人々には、生物体としての人体に関わる知識と理解力、その基盤となる物理学、化学の基礎学問が不可欠です。病気という現象を見つめ、血液検査、尿検査、放射線画像、血圧、心電図、等々のデータを分析評価し、病原をつきとめ、適切な治療方針を考え実行するのです。薬剤の投与や手術といった治療が行われます。薬剤の投与による病状の変化を的確に把握し、日々の治療を継続して病気を治さねばなりません。手術では、病巣と生体の状況を時々刻々把握しつつ、知識と技術を総動員して、限られた時間の中で処置します。医療業を支えるのは医療材料産業、医療機器産業、製薬産業、情報通信産業などです。これらの多くは第二次産業に属しますが、いずれも理系の仕事が人々の健康を支えているのです。
理系の勉強
このような理系の仕事をするためには、そのための能力を身に着けなければなりません。自然現象の因果関係を明らかにして利用したり、自然の事物から新たな事物を作り出すわけですから、まずは、自然の現象や事物を理解しなければなりません。その勉強が理科であり、理科を表現する数学です。自然の現象がどのような因果関係によって生起するのか、物はどのような構造になっているのか、など自然の事物の知識と論理を理解する必要があるのです。
その上で、新たな価値を提供する事物を作り出すための能力が必要になります。そこでは、新たな価値を構想する(あるいは夢見る)想像力が必要になるでしょう。そして、その構想を実現したいという情熱や欲求という動機が必要になります。しかし、幸いなことに多くの人々は、多かれ少なかれ、何か今までにない事や物を実現したいという本能的な能力をもっているのです。
そして、めざす新たな事物を作り出すためには、当然ながら、自然の事物に対する知識と論理が不可欠です。なぜなら、それらは私たちに、事物がどのような論理で変化するかを教え、予測させてくれるからです。ここでも理科や数学が基本的な道具になるのです。
高等学校の普通課程では理科として物理、化学、生物、地学の4教科を学びます。この中で物理は後の3つの教科の基礎ともいえるもので、基本的な自然現象が生起する法則、知識、論理などを説明してくれるものです。だから、理系をめざす生徒にはぜひ学んでほしい科目です。特に工学系の勉強と仕事をめざす皆さんは、学んでおく必要があります。なぜなら、物の運動を説明する物理の中の力学が多くの工学分野の基礎となっているからです。そのうえで将来の方向を考えて、どの教科を選択するかを考える必要があります。
高校で専門教育を主とする学科の中で、農業、工業、水産、家庭、情報、看護などに関する学科が理系の学科といってよいでしょう。理科や数学の勉強に加えて、それぞれの学科に特有の教科を学びます。多くは、卒業後にその分野の職業人として活躍することを目的とした職業知識や技術を学ぶことが多くなります。例えば工業高校の機械科ならば、卒業後は機械の製造会社で機械の設計業務という仕事に就く場合があるでしょう。機械とは部材を組み合わせて電気等の動力によって動作させ、目的とする機能を実現するものです。その設計では、部材の形状、部材の結合方法、部材の動作方法、動力源とその伝達方法などを具体的に実現可能な図面として描く必要があります。図面を描くためには、部材の形状と大きさを定める必要がありますが、それは機械の機能実現の原理と計算によらなければなりません。だから基礎知識としての理科や数学がどうしても必要になるのです。
大学では多くの場合、専門教育を前提とします。大学教育の伝統的な分類による理系の学部として理学部、工学部、農学部(加えて畜産学部)、水産学部、薬学部、医学部(加えて歯学部)、などがあります。その下に、さらに専門的な学科が置かれます。もっとも学科数が多いのは多くの大学において工学部であり、多い大学では10から20の学科があります。最近は社会の複雑化や必要な技術の高度化によって、情報学部、生命学部、環境学部などの学部や理系文系が融合した学部などがあります。しかし、学問の本質としては、伝統的な分類による学部と学科に包含されるといって良いでしょう。
工学部の学科は大別して、土木建設系(土木工学科、建築工学科、環境工学科など)、機械系(機械工学科、機械システム工学科、精密工学科など)、電気電子系(電気工学科、電子工学科、通信工学科など)、応用物理系(応用物理科、物理工学科、計測工学科など)、応用化学系(応用化学科、工業化学科、分析化学科、化学工学科など)、材料工学系(材料工学科、金属工学科、資源工学科など)、情報工学系(コンピュータ科、数理工学科、情報工学科など)などがあります。大学の方針や特徴によって、学科の名称は多様です。
同じ工学という名前がついても、多くの学科があることに戸惑うかも知れませんね。工学部の学科の種類は生活の中で必要とするモノやサービスの分類や基礎とする学問の分類と結び付いているといって良いでしょう。しかし、物理、数学、化学などの学問が基礎にあって、それらから派生して、実生活の多様な技術に対応しているわけです。だから、学科の名称は異なっても、基礎となる学問は共通している場合が多いのです。たとえば物理の力学の基礎の上に、材料力学という学問があり、これは、土木建築系、機械系、応用物理系、材料工学系でほぼ共通しています。学科によって、強調される部分や応用的な知識が異なる程度です。
だから、大学の専攻学科と仕事の技術領域とが直接結びつかなくても、学んだ学問や知識情報を基礎にして、多くの理系の職種に適応できる可能性があるのです。
ICT社会を実現した大発明 〜トランジスタ〜
人類は新たな事物を絶え間なく生み出すことによって、豊かな生活を実現してきました。身の回りをみて下さい。さりげなく存在する物の一つ一つがこのような営みの成果として存在しているのです。具体的な事例をみましょう。私たちは、いまかってなかったICT(Information Communication Technology)社会の渦中にあります。ICTという大きな価値を提供する根源の新たな事物について触れてみましょう。
それは1947年末、米国のベル研究所で発明されたトランジスタです。電話という通信手段が重要な社会基盤になりつつあった時代、広大なアメリカ大陸に電話網が敷設されようとしていました。音声を伝える電気信号は伝搬するにつれ減衰するので、途中経路で減衰した信号を元の強さに回復させることが必要でした。つまり信号の増幅という機能が必要だったのです。
当時、そのような信号の増幅を実現するために真空管という部品が使用されていました。これは真空のガラス管の中の電極を流れる電流を制御して弱い信号を強めるものでした。しかし、真空中で電子を取り出すために電極を加熱するので、余分なエネルギーを必要とするうえ、加熱用のフィラメントが切れやすく、故障が頻発しました。また電話機同士をつなぐ回線の切り替えをする装置(交換機)にも多数の真空管が使用されていましたが、同じように故障に悩まされていました。
そこで、真空管に代わる安定した信号増幅器が期待され、そのための研究が世界的に展開されました。当時、量子力学や物性物理学などが長足の進歩をとげ、物質の構造や電子の振る舞いが解明されて、固体物質を利用して電気信号の増幅が可能ではないかと考えられました。このような背景で発明されたのがトランジスタです。ベル研究所は電話事業を展開するアメリカ電信電話株式会社(ATT)の研究子会社で、全米の電話網を敷設し電話サービスを提供するための基礎技術の研究開発を行っていました。電話事業は当時の物理学に基づく最先端の電気電子技術の応用分野で、ベル研究所には優秀な研究者、技術者が集まっていました。
固体物質の電子的特性を利用した増幅器の開発は、1930年代にショックレィという優秀で個性的な物理学者がリーダーにスカウトされて始まりました。10年以上にわたる苦闘の末に、1947年のクリスマス近い12月17日に固体表面の特性の測定中に偶然にも信号の増幅が発見されたのです。半導体であるゲルマニウム結晶に酸化膜を形成し、近接した2本の金属針を立てて、一方に小さな電流を流したところ、他方の針にそれを大きくした電流が流れたのです。これこそ、今日のICT時代の幕開けとなるトランジスタの発明だったのです。
その後、このトランジスタはシリコン(半導体材料の一つ)の一枚のウェハ(薄板)の上に無数に造り込められたIC(Integrated Circuit、集積回路)となり、電気信号の増幅やオンオフを自在にできる部品となりました。多くの製品に利用されるようになり、半導体産業は30年ほどで、世界的な巨大産業となりました。第二次世界大戦後の間もないころ、当時まだ小企業だったソニーがいち早くトランジスタを使用したラジオを開発しました。このトランジスタラジオが世界的なヒット商品となって、同社の飛躍の礎となったことは良く知られています。
半導体が最も威力を発揮した製品の一つがコンピュータでした。20世紀の中ごろ、プログラム内蔵方式電子コンピュータが発明され、当初はやはり真空管が信号のオンオフに利用されていました。そのため、コンピュータは大型でエネルギー消費が大きく、故障が頻発し、特別な用途にしか利用できませんでした。真空管に代わり、トランジスタ、さらにICが利用されるようになって、コンピュータは急速に安定で小型なものになりました。1970年頃から、コンピュータは社会のさまざまな業務に利用されるようになりました。さらに半導体が大規模なLSI(Large Scale Integrated Circuit)となって、コンピュータの心臓部であるCPU(Central Processing Unit)やデータを記憶するメモリーに使用されるようになりました。コンピュータのいっそうの小型化、高速化、安定化が進み、1985年頃からパソコンが広く普及し始めました。
その後、携帯電話、携帯音楽プレーヤー、タブレットなどすべてのICT機器には高速高集積のCPUやメモリーが搭載されて、複雑な情報処理やデータの記憶を担っているのです。60年以上前にほとんどの人が知ることもない、小さなゲルマニウムに金属針を当てた実験から生み出された巨大な成果です。このトランジスタがなければ、コンピュータもパソコンも携帯もなく、インターネットもなければ、社会基盤となっている情報システムもないのです。このトランジスタの発明から半導体産業(市場規模は世界で約30兆円)へと成長する過程には、大小の無数の技術革新があり、そこには物理や化学などの学問やそれらを基礎とする技術の研究開発の成果があったのです。
ここでは、トランジスタの例をあげましたが、影響の大小は別として、車、飛行機、繊維、薬品、医療等々多くの事物が理系の学問や仕事から生み出され、私たちの生活を豊かにしてくれたのです。
理系の仕事の楽しさ
理系の仕事には、楽しさが満ちています。多くの人々は達成感や充実感を感じるときに、楽しいと思うでしょう。理系の仕事はそのような達成感や充実感をもちやすいのです。人は本能的に、知りたいという欲求をもっています。身の回りの自然界の現象や物の本質を知りたいと思でしょう。それらを知ることによって、さらにその先にある根拠を知りたいと思うでしょう。
自然の事物の因果の連鎖を知ることができれば、それを応用して事物の予測が可能になります。AにBを加えればCになる。このことの連鎖の果てに、AからZを作ることが可能になるというわけです。AからZを作るなど、想像もできなかったことが、理系の勉学によって可能になるのです。その多くの過程で、事物の因果の知識が役に立つだけでなく、新たな因果の知識を獲得することができます。このようにして,専門的な知識を深め、それを応用して新たな事物を創り出すという達成感を得ることができるのです。
もちろん新たな事物を創り出す過程は平坦なものではなく、汗と涙の苦労を必要とすることでしょう。前記したトランジスタの発明でも、10年以上の失敗と挫折の繰り返しがありました。既存の知識から出発して予測を立て、実験を行い、予測を確認し、新たな知識(因果の関係)を獲得しながら、予測を修正する、という数多くの試行錯誤の結果として、新たな事物の実現が可能になります。こうした苦労の果てに目的の事物を実現できた喜びは何にも代え難いほど大きいに違いありません。
私は物理工学の大学院修士課程を修了して、情報機器製造企業に入社しました。今から40年ほど前のことです。我が国の高度成長の真最中で、半導体産業、電機産業、コンピュータ産業等の勃興期でした。入社するや、国の補助金による大型の研究プロジェクトの渦中に放り込まれました。現代物理学の成果に基づく新しい光源であるレーザーと空間情報の新たな記録方式であるホログラフィを利用したコンピュータの大容量メモリーの開発でした。
数10人の研究者と数10億円の研究費をつぎ込んだ3年余りの研究開発でしたが、基盤となる技術が未成熟だったため、実用化は不成功に終わりました。私は、このプロジェクトの中で、最も中心的なホログラムメモリーの作成グループのサブリーダーとして、10人ほどの若い研究者の指導指揮にあたりました。とはいえ私自身も若くて未熟な25から28歳のころでした。 非常に困難な高い目標を与えられ、悪戦苦闘しました。今思い返せば、未熟であるがゆえに、目標設定の不適切さや異常な高さによって、無茶なプロジェクトであったといえます。しかし渦中にあったとき、何としても達成するという若いエネルギーを発揮して、一時は文字通り不眠不休に近い研究を繰り返したのです。
高い目標にチャレンジする苦しさを救ってくれたのが、技術の研究開発の楽しさでした。目標を立て、目標達成のための手法を予測し計画し、実験や試作をする。その過程で、もてる多くの知識を動員し、分からなければ書籍や論文で調べて知識を獲得し、アイディアを出し実行する。成功すれば、予測の正しさが実証され達成感、満足感を得る。失敗すれば、その原因を究明し、目標や方法の見直しを行い再チャレンジをする。
こうした繰り返しの中で、技術者や研究者は多くの知識、技術、経験を獲得して、自らの充実を実感できるとともに、社会に今までにない製品や技術を提供することができるのです。自分が関わった製品や技術が人々に活用され、喜ばれ、役に立っていることほど、嬉しいことはありません。
いつの時代にも課題がある
いつの時代にも、社会では多くの課題の解決が求められています。忘れもしない2011年3月11日、東日本太平洋沿岸部に大地震が発生し、大津波が襲いました。福島第一原発が大津波に被災し、発電機能を喪失したばかりか、危険このうえない放射線と放射性物質の大量発生装置と化しました。原子力発電は20世紀初頭から発展した現代物理学の粋である相対性理論や量子力学によって予測されたエネルギーと質量が等価という原理に基づくものです。その実現のために、物理工学、機械工学、熱力学、電子工学、土木建築工学など多くの最先端の技術が結集されました。しかし、自然の脅威の前に、人間の生み出した装置がいかに脆いかを知らされ、原子力発電所は制御不能の危険物となり、エネルギー源として大きな疑問符を打たれました。
原子力に代わって、太陽光、風力、地熱、などなど環境負荷の軽いエネルギー源の活用が求められています。これらが本格的に活用されるようになるには、コストや発電の安定性など多くの課題があります。課題解決のための技術の開発が不可欠であり、多くの理系の仕事が必要です。研究開発によって、これまでにない技術が実現されれば、社会の状況を大きく変えることができるのです。
世界有数の経済大国である我が国では、飢餓の問題はありません。しかし、地球上の人口は急速に増大し、食糧不足による飢餓が深刻な問題になっています。すべての人々にいきわたるように、食糧を増産することが人類的な課題になっています。私たちの周囲には、さまざまな難病に苦しむ人々がいます。原因そのものが不明だったり、有効な治療方法が不明だったりして、生涯を病気のまま過ごす人々が少なくありません。せっかくこの世に生を享けたのに、人として享受できる心身の働きに大きな制限を受けることは、どれほどの苦しみでしょうか。生命科学等の研究や技術によって、難病の解決が待たれています。
新たな成長へ!、理系の人材が必要だ!
我が国は1990年代初頭のバブル崩壊以降、失われた10年とも20年ともいうべき停滞の時代に入ってしまいました。この間、さまざまな景気浮揚策がありましたが、多くが期待外れでした。 少子高齢化の急速な進行、社会保障費の急速な増大、年金制度の破綻、国家財政の窮迫など、多くの社会問題が発生しました。
とりわけ若年層の雇用の問題は深刻で、失業率の増大、非正規雇用の増大、給与の減少などが進んでいます。若者が希望をもって生活できるようにしなければ、我が国の未来はありません。そのためにも、新たな技術によって、新たな価値ある事物を創り出して、雇用を生み出し、産業経済を活性化する理系の仕事が必要なのです。誰でもが知る大企業を起こした理系の豊田佐吉、松下幸之助、井深大、本田宗一郎、などなどだけでなく、有名無名の理系人間の後に続いて、我が国の次なる成長に向けて多くの若者が理系の仕事に参加することが期待されます。
昨年10月5日、56歳の若さで他界した稀代の事業家、アップル社のCEOスティーブ・ジョブズは必ずしも技術者とはいえないかも知れません。彼は世界の人々の生活のシーンを変える製品や仕組みを次々に送り出し、アップル社を短期間のうちに世界的な大企業に育てました。彼の真骨頂は、多くの人々が潜在的に欲求する新製品を具現化してみせたところにあります。しかし、彼の功績を支えたのは、前記した半導体やコンピュータをはじめとする、さまざまな先端技術であり、それらを開発した多くの技術者でした。
徳島県阿南市は人口76,000人ほどの小都市です。その阿南市に日亜化学工業という会社があります。1990年頃、この会社は蛍光灯の管内壁に塗る蛍光剤のメーカーで売上高は200億円ほどの中企業でした。約20年後の今日、同社は売上高2200億円を超える大企業へと成長しました。およそ10倍です。停滞の20年に、このような成長は驚異的です。何があったのでしょう。
1980年頃、同社に中村修二という個性的な若者が入社しました。電子工学の大学院修士課程を修了したばかりでした。彼は会社の規模には不相応と思われる赤色発光ダイオードの開発製造に取り組んだのです。しかし、後発で研究環境も研究費も貧弱な中小企業では名だたる大企業にはかなわず、事業は赤字を重ねました。そこで、彼は一念発起、後追いではしょせん大企業にはかなわないと、世界中の企業や研究者がねらっていた青色発光ダイオード(青色LED)の製品化研究に挑戦しました。当時、名古屋大学教授の赤崎勇らが、世界のほとんどの研究者が無視していたGaN(Gallium Nitride、ガリウムナイトライド、半導体の一種)を用いた青色LEDの基礎研究に成果をあげていました。
中村はこのGaNに着目して、ほとんど独力で取り組み、製品化上の難題を解決するアイディアをだし、高度の製造装置を手作りしながら、誰も実現したことのない青色LEDの製品化に短期間で成功したのです。世界中をあっと言わせた快挙でした。1990年代前半のことです。彼は多数の特許を取得して、他社の参入を防ぎ、日亜化学は青色LEDの市場を独占して成長しました。
青色LEDは携帯電話器、自動車の表示パネル、交通信号機、イルミネーション、液晶などの光源として利用が拡大しました。加えて、すでに実用化されていた赤、緑のLEDと合わせて、白色LEDが実用化されました。蛍光灯に代わる一般照明用の光源として利用が急拡大しました。皆さんも、低消費電力で寿命の長いLED照明が急速に普及を始めたことをご存知でしょう。名もない技術者中村修二(その後、中村はもっとも有名な技術者の一人になりました)が成し遂げた青色LEDの製品化は、新たな事業、産業の成長と照明の世界を変えるという大きな社会的インパクトをもたらしたのです。
世界中の人々の生活を変えることになったトランジスタの発明のように大きな影響をもたらした技術でなくとも、私たちの身の回りには、革新的な製品や技術がたくさんあります。理系の仕事がなければ、状況を変えていく、革新を起こしていくことは不可能です(こうした事象をInnovation、イノベーションといいます)。イノベーションによって新たな事業、産業が勃興し、成長し、多くの人々の雇用を生み出し、豊かな生活が可能になるのです。
新たなエネルギー源、電気自動車、海洋資源、先端医療技術、などなど多くの分野でイノベーションが期待されます。イノベーションを起こすには無数の中小の技術課題もあるのです。多くの人々、特に若者が、こうしたイノベーションに参画すべく、理系分野へ進むことを期待します。そのような若者を私も応援したいと思います。(2012年5月31日記)